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VOL.131「第3章 脳の認識」


2021年3月号

 脳は、遠心性と求心性の二つの方向の情報を認識している。

 遠心性認識とは、脳から発することの認識で、言葉を発したり運動器官に動く命令を発したりしたという認識である。
 求心性認識とは、外部環境や言葉を発したり運動器官を動かしたりしたことで起きる様々な情報を感覚細胞が感知し、その感知した情報(感覚情報)を感覚神経が脳へ送った情報の認識である。

 脳は、想念することが複雑で困難または単純で容易だとかと解釈して、その解釈を認識するが、何を以てその解釈をするのでしょう。

 ものごとには、客観的に複雑で困難であったり単純で容易であったりすることはあるが、名人といわれる職人が客観的にとても複雑で巧妙な仕事しているとき、その人はどのように認識しているかを問えば、単純で容易だと認識しているというのである。

 つまり、我々の脳の認識は主観的で、できることは単純で容易、できないことは複雑で難しいと認識しているのである。できないから難しいと感じ、できるから簡単だと感じているのである。脳の判断基準は、自らの技術レベルだということなのである。

 視点を変えると、難しいと認識してしまうことによって、できないことに繋がり、簡単だと認識してしまうことで、できてしまうといえるかも知れないのである。

 我々人間は、運動器官ができることを単純で容易だと認識し、できないことを複雑で困難だと認識しているというのが大方の概念であるが、実は、単純で容易だと認識できれば運動器官はこれをすることができて、複雑で困難だと認識すると運動器官はできないのではないだろうかと考えることができるのである。
 概念の根幹は、脳がどのように認識するかであって、運動器官の能力如何ではないということであり、脳が容易だと認識すれば、運動器官がこれを成すことができ、脳が困難だと認識すれば、運動器官はこれを成すことができないということなのである。運動器官ができるから脳が容易だと認識し、できないから脳が困難だと認識しているわけではないのである。

 それでは、脳は何を以て主観的認識を下しているのだろうか。

 それは、感覚情報を認知できる能力によって、ものごとの難度を主観的に認識しているのではないだろうか。
 感覚情報の認知能力とは、精密度である。どれだけ詳細にしかもどれだけ鮮明に、感覚情報を認知できるかということである。
 つまり、テレビモニターの解象度と同様なのではないだろうか。

 脳の感覚情報の認知能力とは、飽くまでも感覚細胞の感知能力ではなく、感覚神経によって送られてくる感覚情報を脳が認知する能力のことで、感覚細胞の感知能力は備わっていて、あらゆる情報を、感覚神経を通して脳へ送られているが、脳にその感覚情報をどれだけ精密に認知できる能力があるかないかなのではないだろうか。

 目的の所在を感覚情報に基づいて特定することができれば、単純で簡単だと脳が認識できることに繋がるのである。
 そこで、感覚情報に基づくとは、五感によって特定するということであり、音や臭いや温度や速度や硬軟や軽重などのことで、これらの感覚で目的を特定するということなのである。

 所在とは、場所であり実態を特定することであり、目的の存在する場所や実態を明確にするということである。

 目的の所在は、目的地の場所と同じ概念で説明でき、目的地へ行くには、道順が重要なことではなく、目的地の場所を方位的に明確に特定することが重要なのであり、目的の所在を明確にするには、感覚情報として明確にするということであって、道順である手法として明確にすることではないのである。

 目的地の所在が明確であれば、道に迷ったとしても大した問題ではないのである。しかし、道順が重要だと考えていると1ヶ所曲がり角を間違えてしまうと、途端に迷って目的地に到達することができなくなってしまうのである。

 運動器官をコントロールしてものごと成し遂げたり、巧みに運動器官をコントロールできたりする場合も、目的地へ行くのと同様のシステムなのである。

 目的地も目的もその所在を明確にすることは同様で、脳が明確だと認識できるように、その所在を明確にするようにすることが重要なのである。

 例えば、ペットボトルの蓋を開けてその中の水を飲む場合は、「水を飲む」と行動の目的を持つことが、目的の所在を明確にするということで、猿の場合は、水を飲むという目的の所在では、蓋を開けることに繋げられる脳の能力がないので、蓋を開けるという目的地としての所在にしなければなりません。つまり、蓋を開けると何かご褒美が貰えるようにするということである。
 すると猿にとって、目的地の所在が明確になるので、直ぐに蓋を開けることができるようになり、やがてペットボトルの蓋を開けて水を飲むことができるようになるのである。

 これは、人間でも同じで、目的地を明確にしたとしても、あまりにもその目的地が遠すぎれば、脳は単純だと認識することはできないので、目的地へ行くことができないということになってしまうのである。

 この場合、脳が目的地を明確に捉えられるように段階的にもっと近くの目的地を置き、先ずその近くの目的地に行くことをしなければならないのである。これは、数学の問題を解く場合に、難解であれば、易しい問題からできるように練習するのと全く同様なのである。

 何ごとも容易なことから始めるのは、目的をそれぞれの人の脳が明確にその所在を認識できるようにする行為なのである。

 何ごとも、我々の脳が単純だと認識できるかどうかは大変重要で、ものごとを達成できるかそうでないかを決定づけることなのである。何処かへ行く場合でも何かができるという場合でも同様で、脳が単純だと認識するかどうかが問題であるから、脳が単純だと認識できるように、目的地や目的の所在を明確にすることが必要なのである。
 目的地や目的が遠大であるときは、その所在を近くに引き寄せることが重要で、近くへ引き寄せれば目的地も目的もより鮮明になるので、これを成すことができるのである。

 しかし、誤解なきように念を押せば、飽くまでもその人がどのように認識するかどうかであって、客観的にどうかという問題ではないということなのである。

2020年12月14日
著者 土岐田 勘次郎

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