2019年6月号
今月のテーマは、ホーストレーニングの概念について考えてみたいと思います。
レイニングホースは、スピンやサークルやスライディングストップやロールバックやチェンジリードなどのパフォーマンスをトレーニングでティーチングします。
しかし、このようなパフォーマンスは、馬の体勢や重心やステップのアクションをティーチングした結果パフォーマンスが出来上がります。
つまり、馬はライダーの指示によりパフォーマンスをしているという認識を持つのではなくて、ワンプッシュにワンアクションとして反応することを継続的に行っているに過ぎないのです。
この論理がホーストレーニングの概念といえるものです。
この論理に対して、パフォーマンスそのものをティーチングしていると考えている人がいることでしょう。例えば、スピンやチェンジリードを、そしてロールバックをティーチングして、馬がこれを学習してライダーの要求に応えているという論理を持っている人がいると思うのです。
しかし、この論理は、簡単に覆ってしまうのです。何故なら、ライダーが馬に対して行っているキューイングが、それぞれのパフォーマンス毎にあるわけではないからです。もし、このパフォーマンスをティーチングしているという論理が正しいなら、それぞれのパフォーマンスのキューイングに違いがなければ、馬はどのようにしてその要求に反応すればいいかが分からないということになる矛盾が生じます。
ライダーのキューイングには、脚(レッグキュー)とレイン(ネックレイン)と舌呼(ヴォイスキュー)の3種類があります。脚は、タッチまたプッシュやバンプによって使いますが、これは使ったヴェクトルと一致する馬のアクションを求めていて、ネックレインもまたこれに同様で、ヴォイスキューは促進と制動の2種類です。
つまり、これらのキューイングは、何れもワンウェイの反応を求めているに過ぎません。脚であれば右から脚を使えば左方向へ、左から脚を使えば右方向への馬のアクションを求めているものであり、ネックレインも同様で、またヴォイスキューも、促進は、今の行っている運動方向の促進であり、制動は今行っている運動方向と逆方向への圧力効果であります。
従って、これらのキューイングは、一方向へのアクションを馬に求めているのであり、スピンやチェンジリードやロールバックという人間が持っているパフォーマンスの概念を、馬がその概念を共有して反応するものとはいえないのです。
つまり、私が考えるホーストレーニングの概念は、飽くまでも馬のワンアクションを馬が反応として運動するようにティーチングするものだというもので、馬が理解できることは、絶対とは言い難いが大概は、我々人間が持つパフォーマンスの概念を持つことができず、ライダーのキューイングによってワンアクションを反応として行うものなのではないかと考えるものである。
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馬の反抗や抵抗に遭うライダーがいる。馬の反抗や抵抗に遭う人は、どんな馬に乗っても同様に反抗や抵抗されるのです。
表現法を変えると、馬の抵抗や反抗を作ってしまう人は、偶然ではなく常習犯なのです。つまり、このような人はどの馬に乗っても何回も何回も繰り返すし、必ずこの人が馬に乗ると抵抗や反抗されるのです。
これらの原因は、ライダーが馬に乗って馬とコミュニケーションするには、前提条件として概念の一致が必要なのです。つまり、コミュニケーションする双方の概念が一致しなくてはなりません。概念が一致していなければコミュニケーションは不可能なのです。
ライダーが馬に対してキューイングして、スピンを要求した場合、馬がスピンをしなければ、ライダーは馬が逆らったと受け取ります。しかし、馬はライダーの要求としてのワンアクションは反応していた場合、馬がライダーに従っていると思っていても、スピンをしないものだからライダーから叱責を受けることになります。
このコミュニケーションの齟齬は、ライダーと馬のとの概念の相違によって起きていることで、この齟齬が馬の抵抗や反抗が生まれる原因なのです。
人間同士のコミュニケーションであれば、互いの概念が違えばこれを一致させるように調整すればすむことであるが、人間と馬とのことであれば、人間が馬の持ち得る概念に合わせることでしか一致させることはできないのである。しかし、度々馬に抵抗や反抗される人は、概念の違いという認識がないのです。概念の違いがあるのではないかという疑問さえなく、自分がどんな概念を持っているかということさえ視野にないのです。
馬が訓練されて人間に対して従順に従うようになっていても、そのときのライダーが、馬の持ち得る概念の限界を理解せずに馬とのコミュニケーションすることが不可能なのです。そのままコミュニケーションを続ければ、馬は理解不能となって混乱し抵抗や反抗するしかなくなってしまうのです。
日本人が、外国人や外国の文化や習慣を理解するとき、表面的違いばかりを論じて、その根底にある概念について論じることが少ない。その原因は、島国の狭い国土で社会を構成しているために、一々概念について論じることなしに一致していることが多いためなのではないだろうか。しかし、外国人とのコミュニケーションとなると、ものごとに対する概念が大きく異なるので、先ず、概念が違うという理解をしなくてはならないことを認識する必要があるのです。
特に、動物と人間とのコミュニケーションとなれば、概念がどのようになっているかという疑問がその入り口にあるこということを知る必要があるのです。
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