2022年10月号
今月は、「何故、人は、バケツを持ち上げられるか。」を、考えて見たい。
人は、大脳でバケツを持ち上げようと思う。すると、実際に手肢を使って持ち上げるのである。
このとき、何らかの支障が発生した場合、立ち位置を変えたり、持ち上げる角度を調整したりして、持ち上げるのである。
調整をするのに、何ら考えることなしに、人はやってのけるのである。つまり、この調整は、マクロとして大脳の考えたものには沿っているものの、実際にどうやって持ち上げたらいいかを考えることなく、手肢が勝手にやっているのである。
何故、人はこんなに難しいことを、やってのけることができるのであろうか。
思ったより重ければ、力を相応に入れるし、それでも持ち上がらなければ、立ち位置をバケツに近づけて、バケツと自分自身のそれぞれの重心を近づけ力の効率化を図り、それでも駄目なら道具を使って持ち上げてしまうのである。
こんな難しい技を、人は何ら知恵を絞ったり、寝食を削ってまで悩んだりせず簡単にやってのけるのである。
何故、人が難しいことをやってのけられるのかの答えは、マクロとしてバケツを持ち上げるという考えと、ミクロの手肢を駆使して持ち上げる行為は、その目的と手法が一致しているからなのである。
人間が難しいことをやってのけられるのは、大脳のやるべきことは大脳がやり、手肢がやるべきことは手肢がやっているからではないだろうか。
つまり、各々の役割を全うし越権行為はしないという戒律の下で、大脳の範疇であるマクロと手肢の範疇のミクロの目的と手法が一致していることが、成し遂げるための必須要件なのである。
マクロとして想念することが、マクロを支配し、そのマクロで想念したことに手肢は沿って動こうとするのだから、マクロで想念することは、マクロを支配し、結果的にミクロを支配しているのである。
マクロは、成功や失敗などの経験や見聞や社会的通念や常識や知識や能力など様々な要因に支配されているのである。
従って我々は、マクロが何に支配されているのかを知る必要がある。絶えずその時々において、マクロを支配しているものの正体を知っておく必要があるのだ。
何故なら、マクロを支配しているものに、結局ミクロも支配されているからである。
マクロの支配人を拘束している正体を知らずしては、ミクロが機能して失敗や成功しても、その原因を知ることができないのである。原因が分からなければ、修正も変更もしようがないのである。
マクロを拘束するものは単純ではなく、意識的に目的や手法を持っていても、無意識に成功体験や通念や能力や思い込みなどに支配されていることもあるのである。
複雑な構造を持っているマクロであっても、その正体を確認しておいてマクロの支配人を拘束するものの実態を知っていれば、潜在的や顕在的であっても認識上に置くことでき、結果が思うようでなければ、バケツを持ち上げるように、ミクロでできる限りの修正を自動的になされ、それでも上手くいかなければ、マクロの修正も自動的に起こすことができるのである。
マクロで何を思っているかが重要で、マクロで描いている目的や手法が間違っている場合は、ミクロはこれに支配されているので、結果を出すことはできないのである。
その反面、マクロが正しければ、ミクロがどんなに失敗や間違いをしたとしても、目的のために修正を繰り返して結果的に目的は達成されるのである。
しかし、我々は、マクロが正しいかそうでないかを、ことの始まりにおいて知ることはできないのである。然らば、マクロが正しいかそうでないかを知るためにどうすればいいのだろうか。
マクロの支配人は、何によって拘束されているのだろうか。
マクロの支配人が一番拘束される要因は、能力なのである。次に、思い込みだったり成功や失敗の経験や見聞や社会通念だったり、またリスクとしての不安や恐怖だったりするのである。
人間は、自分の持っている技術以上の構想を持つことができるのである。知識や見聞によって、実力以上の構想を持つができるのである。
技術以上の構想を持てば、空論になり実現は不可能なのであり、危険でもある。
マクロは、自らの技術の範囲で考えなければならないのである。
自分の持っている技術の範囲でマクロが構想できれば、マクロは、大凡間違った概念に囚われることはなくなるのである。
マクロが正しい場合は、ミクロが未熟であっても、失敗の要因を感触で獲得するので、その感触が手がかりとなって、自然に修正が生まれるのである。従って、ミクロが失敗をすることがあっても間違いをすることはないのである。
原理原則として、マクロとミクロが、一致しないということはないのである。
もし、マクロとミクロが一致しないときは、マクロが二重の目的(潜在的と顕在的の2重)を抱えているのに気付いていないときなのである。そのときは、マクロを支配している正体を知るために、力を尽くす必要があるのである。特に、潜在的に持っているマクロの想念を確認する必要がある。
目的が達成されない原因は、概ねマクロが間違っているときなのである。
ミクロが未熟で失敗しているときは、必ず成功への手がかりがあるので、その手がかりを以て、修正を繰り返すことができ成功は予定できるのである。
無学文盲でも、巧みなものを作り出せたり優れた特技を持ったりしている人は沢山いるが、それは、ミクロを訓練することで、マクロの構想が優秀になっていくからなのである。
しかし、学業に励んで、知識や見聞を広めても、ものを作り出す能力が優れるということはないのである。
人が、マクロの構想を優れたものとなるように研鑽するには、ミクロの熟練なしにはできないことなのである。
我々人間は、ミクロの熟練度に準じて、マクロとして見える景色が広がったり深まったりするものなのである。
人間は、知識や見聞によってミクロの技術レベル以上のマクロを想念してしまうことがあるが、本来ミクロのレベルに応じてしかマクロを想念することができないのである。
ミクロのスペックがレベルアップすれば、見える景色が変化して、マクロの展望も自ずと広がったり深まったりする。マクロの進化によって、ミクロのスペックもまた向上するのであり、ミクロのスペックが向上すればマクロもまた更に進化するのである。
つまり、マクロとミクロは、相乗的に発展するものなのである。
従って、マクロの構想を優れたものにする場合、先ずミクロの訓練が必要で、知識や見聞に囚われずに、ミクロの能力の範囲でマクロの構想をするべきなのである。
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