2022年12月号
今月のテーマは、本を読むことで、自転車に乗ることができるようになる、についてである。
私は、これまで、本を読んで、自転車に乗ることは、できるようにならないといってきた。しかし、本を読んで、自転車に乗れるようになるのではないかということについて、考えてみたいのである。
人間が自転車に乗る行為は、大きく区分すると二つのことをやっていて、バランスを取ることとペダルを踏んで駆動することである。
バランスを取る行為は、耳の三半規管によって動体の平衡感を察知して、その情報を脳へ送り、小脳は、送られてきた平衡の感覚情報と運動器官を連結させる感覚統合で、筋肉運動をして平衡を維持しているのである。
そして、自転車を駆動するためにペダルを踏む行為は、大脳による意図的行動なのであるが、大脳がペダルを踏むと思っていても、足の筋肉に力を入れようとはしていないのであり、ペダルの重さに相応した力で足はペダルを踏んでいるので、ここでも小脳による感覚統合が行われているのである。
因みに、大脳は、運動器官の筋肉を直接制御することができる。
例えば、小指の第1関節を動かそうと思って、指の筋肉を使うことができるのである。このとき、大脳が運動神経を通して筋肉に命令をするので、小脳による感覚統合の感覚情報と運動器官の連結は、遮断されるのである。
人が自転車に乗る行為は、バランスを取るための小脳の感覚統合と、ペダルを踏んで、自転車を駆動する大脳の意図的行為に沿った小脳の感覚統合を、同時に行っているのである。
バランスを取る行為は、大脳の意図的行為とは別だというのは、無意識的行為としてバランスを取っているからなのである。大局的にいえば、バランスを取る行為も大脳の意図的行為といえなくもないが、大脳は、バランスを取ろうと思ってもできるものではないのである。
感覚統合は、無意識的行為であり、意図的行動は、意識的行為なのであり、感覚統合は、熟練度が低いほど意識的行為である意図的行動が起きると、感覚情報と運動器官の連結が遮断され、感覚統合の機能が損なわれるという特徴を持っているのである。
つまり、感覚統合を行ってバランスを取っていても、大脳が意図的行動をしようとすると、感覚情報と運動器官との連結が遮断されて、感覚統合が損なわれバランスを失うのである。しかし、感覚統合が熟練されてくると、多少の意図的行動をしようとしても、感覚統合が損なわれなくなるのである。
従って、自転車を乗れるように練習する場合、先ずバランス感覚を養うため、自転車のペダルを取り外して、なだらかな下り斜面を緩やかに滑走し、充分にバランスが取れるようになるまで練習し、その後にペダルを装着して、ペダルを踏む意図的行動を行えば、難なく人は30分程度の練習によって、一切転ぶことなく乗れるようになるのである。
人が自転車に乗る行為は、大脳がマクロとして、バランスを取りつつペダルを踏んで自転車を走らせると考え、ミクロでは大脳の抱くマクロに沿って、小脳が感覚統合を行ってバランスを取り、且つペダルを踏むという意図的行動を行うことなのである。
以上のことで、人間の運動のメカニズムが理解できるのである。
人は、このメカニズムを理解するために本を読めば、自ずと自転車に乗れるということになるのである。
大脳を関与させずにバランスの養成をして、その後にペダルを踏む意図的行動をすれば、殆どの人が転ぶことなく自転車に乗れるようになるである。
人間の行為は、大脳ができるだけ具体的にマクロを考案し、ミクロはマクロに沿って小脳が感覚統合を行い実行しているのである。
自転車の場合のペダルを踏む意図的行動も、大脳が命令して足を動かしているのではなく、大脳の抱くマクロであるペダルを踏んで自転車を駆動するというマクロに沿って、小脳が感覚統合を行いペダルの重さに相応の力を、足に入れペダルを踏んでいるのである。
人間の意識的行為と無意識的行為である感覚統合の運動メカニズムを理解し、更に自転車に乗る場合に、そのメカニズムを当てはめたマクロとミクロの関係性を理解することで具体的な練習法を取り、我々は自転車に乗れるようになるのである。
しかし、日本人の多くは自転車に乗る場合、乗っては転び、再び乗っては転ぶことを繰り返して、忍耐と努力の結晶として自転車に乗れるようになったという概念によって理解されているので、相変わらず献身的な忍耐と努力を繰り返しているのである。
そして、我々は、自転車に乗る場合のマクロとミクロの関係性や、意識的行為と無意識的行為の関係性を理解せずに、意識的に無意識的行為をコントロールしようという無駄な努力を繰り返しているのである。
このことは、大変な弊害を来しているのである。
我々は、挑戦していることが上手くいかないとき、その原因をミクロの問題と思い込み、運動器官の動きに大脳を直接関与させ、改善しようと試みてしまうのである。
多くのスポーツ界のコーチや習い事などの指導者や職人の先輩などの世界に、その弊害は、枚挙に暇がないほどなのである。
マクロとミクロのメカニズムを明確化せずに、ミクロの手脚などの運動器官の動かし方に手解きしてしまうのである。手解きされた人は、本人の大脳が運動器官を直接動かそうとして、感覚情報と運動器官の連結を遮断し、益々混沌とした状況を作り出してしまうのである。
更に、身近な例としてあげれば、高校野球のスーパースターが、プロ野球で大成せずに引退してしまうというのは、この事例を明確にする事実なのである。
プロ野球のコーチが新人選手に対して、手足や足腰などの動きを懇切丁寧に指導してしまうと、指導を受けた新人は、真面目な人ほど指導者のいうことを忠実に実行しようとし、本人の大脳が運動器官の動きに直接関与することとなって、感覚情報と運動器官の連結を遮断してしまい、良い成績どころか持っていた才能までも打ち消してしまうことになる悲劇が現出されるのである。
大脳は、ミクロである手脚などの運動器官の動きを考えることも、ミクロの手肢などの運動器官を直接制御することもできるのである。
ここで注意しなくてはならないことは、大脳が、ミクロである運動器官の動きを考えることと、運動器官を直接制御することとは違うということである。
つまり、手で物を持ち上げるとか、足でボール蹴るとかいうのは、ミクロを考えるということであるが、直接手足を動かしているのではないのである。これに比して、腕の力を入れるとか膝を曲げるとかは、ミクロである運動器官を直接制御することなのである。
人間の運動は、大脳がマクロを考え、そのマクロに沿って、小脳が感覚統合である感覚情報と運動器官を連結して行うものなのである。しかし、バイパス機能として、大脳が直接運動器官を制御する能力を持っているのである。
このことでいえることは、感覚統合には、大脳が関与できることとできないこととがあるということで、例えば、バランスを取るという行為は、関係する筋肉運動を複雑にしかも瞬時に行使しているので、とても大脳が関与してできることではないのである。
しかし、足や腕に力を入れるような単純な運動は、大脳が関与できるのである。つまり、単純に力を入れるような運動には、大脳が直接関与でき、複数の筋肉を駆使するような複雑な運動や瞬間的な運動は、大脳には関与できないのである。
このことを、自転車に乗ることを例に挙げれば、バランスを取るような複雑な運動は、大脳にはとても関与できなくて、小脳による感覚統合でしかできないことなのである。その一方で、ペダルを踏む行為は、単純でそれほど瞬間的でもないので、大脳が関与できるということが考えられるのである。
問題は、大脳が関与できないと思うことは、大脳が関与しようとはしないが、大脳が関与できることとなると、上手くできなかったり苦手意識があったりすると、大脳が関与してこれをやろうとしてしまうことなのである。
運動が得意でない人やスポーツが嫌いな人達は、大脳が運動器官を直接制御しようとして、失敗を繰り返す人が多いのである。
ところが、スポーツ万能な人や身体を動かすことの好きな人達は、マクロとしてやることを大脳が想定しても、実際の動きに大脳が関与しようとはしないので、結果的に小脳による感覚統合に任せてこれを行うので、失敗するケースが比較的少なかったり直ぐに上達したりするのである。
しかし、多くのスポーツ万能者がこのメカニズムを理解しているわけではないので、上手くいかなかったり緊張のマックス状態での失敗を経験したりすると、大脳が関与して、もっと失敗を繰り返す事態が発生するのである。
運動が上手くできなかったり結果が思うようでなかったりすると、大脳は直接運動器官を制御して、上手くやろうとしたり結果を出そうとしたりして、ミクロの修正を図ろうとするのである。
例えば、野球のピッチャーが、ボールコントロールができないとき、キャッチャーミットの構えのところに投げられるよう、肘の曲げ方や手首の動かし方についてあれこれと考え、実際にボール投げるとき、大脳が肘や手首の動きを直接制御しようとするのである。また、指導者のアドバイスによって同じように、本人の大脳が直接運動器官を制御しようとしてしまうのである。
これらのように、大脳が運動器官を直接制御しようとすれば、小脳による感覚統合による感覚情報と運動器官の連結が遮断されて、決して成果を上げることはできないのである。
また、コントロールするために、動きの速度を落として力の70%〜60%位のスピードで、スローイングしながら練習しようとすることも最悪の練習法である。
何故なら、スピードを遅くすることで、大脳が運動器官に直接関与しやすくなるからである。力一杯投げることが重要で、最終動作であるボールが指先から離れる瞬間の感覚を意識するようにしながら練習することで、指先の感覚とボールの飛び方が連結していくことになって、徐々にコントロールできるようになるのである。
大脳は、マクロを想定し、そのマクロに沿ったミクロである運動器官の動きを考えたり映像をイメージしたりすることに止め、ミクロである運動器官の動きは、そのときに得る感覚情報に意識を傾注するようにして、感覚統合に委ねて練習することが望ましいのである。
ミクロの精度を高めるためには、感覚統合の精度を高めることで達成できるものであり、大脳による運動器官の直接制御の成せる業ではないのである。
多くの人の問題は、感覚情報に基づいてものごとを判断しているのか、大脳で判断しているのかを区別できてないのである。区別できていないと修正することができないのである。
行動しているとき、感覚情報で判断しているのかそうでないのかを区別しようとせずに、そのときに自分は何を感じているのかを知ろうとすることが重要なのである。
大脳で判断していることを、否定しようとすることは得策ではないのである。何故なら、大脳の判断を否定しているのも大脳だからで、修正することが不可能で、なるべくリアルタイムに感じている感覚を認識するように、日常努めれば、徐々に自らの意識をコントロールできるようになって、瞬時に大脳と感覚とを区別できるようになるのである。
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