2024年12月号
大脳は、基本的にものを考えたり理解したり、記憶したり想像したり、創造したりしているもので、ときには直接運動器官をコントロールしたりもする。
一方、小脳は、感覚神経において送られてきた感覚情報を運動神経と連結して、運動器官をコントロールしているのである。
これを感覚統合というのである。
人間は、スポーツや職人技などで運動器官を駆使するのは、殆どが感覚統合によって行っているのである。
人間は、大脳が感覚統合の通常システムに割って入るバイパス機能を持っていて、臨時的に大脳が直接運動器官をコントロールする命令を発することができるのである。このとき、感覚統合が熟練していないと、感覚情報と運動神経の連結が遮断されるのである。
例えば、ペットボトルの蓋を開けて水を飲む場合、我々は、手の指を使って蓋を開けるが、決して指の第1関節の筋肉をどのように使ってと考えずに、やってのけるのである。このことは、感覚統合によって、ペットボトルの蓋を開ける場合の重さに対応するように、何も考えることなく指の筋肉を駆使して蓋を開けているのである。指の筋肉をどのように使ってというように大脳を使うと、むしろ蓋を開けるのがぎくしゃくして上手くいかないのである。
また、人間が自転車に乗る行為で、自転車に乗る練習をしている段階の人が、ペダルを踏むと転倒し、自転車に乗って充分バランスを取れるようになった人が、ペダルを踏んでも転倒することはない。
それは、バランスが充分でないときに、ペダルを踏むという大脳が運動器官をコントロールするように、感覚統合に割って入ることによって、感覚統合の遮断が起き、それまで取っていたバランスが取れなくなって、転倒してしまうのである。
そして、自転車に乗れるようになった人がペダルを踏んでも転倒しないのは、バランスが熟練していると、ペダルを踏んで大脳が割って入っても、感覚統合が遮断されずに、バランスが崩れること無く転倒しないということなのである。
我々人間は、小脳が感覚情報と運動神経を連結して行う感覚統合の精度を上げる場合、大脳が感覚統合の無意識な運動を認知する必要があって、そのために小脳が運動神経と連結した感覚情報を大脳が共有することが重要なのである。
小脳が運動神経と連結した感覚情報を大脳が共有できれば、感覚統合の運動を大脳が認知し、その上でその正否を判断できるようになり、その運動の改良が可能になって、感覚統合の運動の精度が上がるのである。
スポーツでも職人技でも、実践中に得られる感覚情報を大脳が認知できるように、意識を自らの行動に向けることによって、その先端と客体との接触点で得られる感覚情報を認知できるのである。
意識は、感覚情報を大脳が認知するためのレーダーで、そのレ-ダー(意識)の向ったところから得られる感覚情報を大脳は認知するが、レーダーの向いていないところの感覚情報が脳に送られていても、大脳は認知することはないのである。
つまり、「心頭滅却すれば、火もまた涼し」である。
脳の訓練は、小脳の訓練に始まり、その小脳の訓練に基づき大脳の訓練をするものなのである。
これは、動物の生態を見れば理解できる。
動物は、大脳も小脳も充分に発達せずに生まれるのである。そして、生命維持機能に基づき、その命を育むために、先ず小脳が発達を見せるのである。つまり、手足を動かせながら、感覚統合を始めるのである。
つまり、小脳において、感覚神経を運動神経に連結させるのである。
人間の赤ちゃんは、生まれた当初、手足がばらばらに動き、少し成長すると一時期手足の動きが止まるそうだ。そして、再び手足が動き始めるそうだが、そのときは、右手を動かすときは左肢が動き、左手を動かすときは右肢が動くのだそうで、バランスを取った運動をするように感覚統合が始まるのである。
つまり、人間は、先ず小脳が訓練されて、感覚統合が始まり、その感覚統合で大脳もその感覚情報を共有し、その上で感覚統合の運動を大脳が認知するので、自らの体を自らの意志で動かすのである。ここで誤解なきように言っておきたいのは、自らの意志で身体を動かすということは、大脳が直接運動器官を動かしているわけではないのである。
その動きにおいて、動きと起きる状況の変化を関連づけるように大脳が認知するので、この行動と状況の変化を関連づけるように大脳が訓練されるのである。
以上のような状況から推測すれば、大脳も小脳も直接的に訓練することはできず、感覚情報の認知が基盤となって、間接的に訓練されるものだといえるのではないだろうか。
感覚情報に基づく運動、つまり感覚統合の運動を、その元となった感覚情報を大脳も小脳と共有することで、大脳の持つ意志によって感覚統合の運動が為されるように成るのである。
つまり、感覚情報を小脳と大脳が共有するように訓練すれば、大脳と小脳が訓練され、大脳と小脳が訓練されることで、感覚情報を感知するセンサーもまた訓練されることになり、センサーと大脳と小脳が連鎖的に訓練される好循環が生まれるのである。
スポーツの指導者の指導内容が正しくとも、その指導を受けた当事者は、そのことを大脳が直接運動器官に命じて成そうとするので、それまで小脳が感覚神経を運動神経とを連結して感覚統合の運動をしていたのが、大脳が関与することで、感覚神経を運動神経に連結しているのを一時的に遮断するので、大脳ではコントロールできない速い動きやバランスを取ることなどに支障が起きて、当事者は途端に混乱を来してしまうのである。
大脳でも小脳でも訓練するには、間接的訓練法しか訓練することができず、そしてまた、大脳や小脳は単独では訓練することはできず、感覚情報のセンサー機能(感知機能)と一緒に訓練する以外になく、スポーツや職人技などの動きは、全て脳の訓練によるところであると確信できるのである。
脳を訓練することは、感覚情報の認知精度をあげること以外に方法はないのである。
一般的には、スポーツや職人技のようなフィジカルの動きは、フィジカルを訓練することでできると考えられ、脳の訓練つまり教育は、講義を受けたり読書したりして、知識を広めることでできると考えられていて、当然のように学校では繰り返しこれを行っているのが現状なのである。
しかし、現行システムで脳が訓練されるのは一部の才能のある生徒だけで、多くの凡人は脳が訓練されることはないのであり、フィジカルも同で、知識が広められても賢くなることはないし、優れたスポーツマンになることもないのである。
特殊な人間は、どんな環境においても、脳を単独に訓練しようとせず、感覚情報の認知機能と共に訓練してしまうので、間違った訓練法においても賢くなれるが、一般の凡人は、センサーと脳を連動して訓練する機能が自動的に働くわけではないので、単独に、脳は脳、フィジカルはフィジカルというように訓練するので、賢くも運動も優れるということはないのである。
つまり、何らかの意志を以てフィジカルを動かして、そのとき得られる感覚情報を大脳が認知して、小脳と同じ感覚情報を共有する。小脳と同じ感覚情報を大脳が認知すれば、感覚統合による無意識なフィジカルの動きを大脳は認知できるのである。
大脳が無意識に動いた感覚統合のフィジカルの動きを認知できれば、そのフィジカルの動きが大脳の意志に適ったものかどうかを知ることができるので、その正否も当然判断できることとなるのである。
従って、無意識な感覚統合のフィジカルの動きが、大脳の意志に沿ったものかそうでないかを判断できることで、無意識な運動が徐々に改良することを可能にするのである。その動きの結果において、大脳が抱く目的が遂げられるのである。
以上のような目的完遂の過程において、感覚情報の認知精度の高度化によって、運動機能も向上し、運動機能が向上するので、感覚情報の認知精度が洗練され、更に感覚情報の認知能力が洗練されることで、フィジカルの運動機能が向上するというような連鎖が繰り返されるのである。
つまり、運動機能の向上も脳の能力の高度化も、このような方法により成し得ることなのである。
一部の才能ある生徒が現行の学校の教育制度でも賢くなれるのは、つまり、脳の能力を高度化できたり、天才的アスリートがその運動能力を飛躍せしめたりできているのは、以上のようなシステムが自動的に起動できる能力が生まれついて持っているからか、偶然にできてしまったのか定かではありませんが、何れにしても、感覚情報の認知機能を洗練することで、脳の能力も運動能力も向上せしめているのは確かなのである。
さらにまた、今日の大学教授や学識の高い職業についいている人達の中に、愚昧な人達が存在するのは、現行の教育制度で、知識を広めることで脳の能力が高まるという蒙昧な思い込みによる産物なのである。
運動能力の高い人に馬鹿は存在せず、子供頃から学校の成績の良い子に運動能力の低い人は存在しないのである。
江戸時代の名残として、日本人の文化として文武両道という思想がある。これは、まさに感覚情報の認知機能を根幹として訓練し、脳もフィジカルも向上せしめるという高度な理に叶った教育法なのである。
このことを論理分析すれば、優れた教育法で、脳もフィジカルも単独で訓練したり教育したりすることができないという思想であり、文武両道によって、我々の先人は、優れた人を創出してきたといえるのである。
明治維新は、江戸時代の「文武両道」という思想心情によって、日本人が形成させられてきたからこそ世界に類例のない偉業が達成できたのである。
この日本の明治維新のような近代化を、清王朝末期の中国においても実現しようとした形跡があるが、とても成し得なかったのは、根本的に文武両道のような教育システムがない中国には無理な話だったのである。
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