俺のウエスタン人生バナー
ウエスタンBライン
第五部 VOL.23   冒 険

 いがけない話が飛び込んできた。ランチからの電話だった。

「Rowdyさん大変な話が舞い込んできているよ」
その話があったのは、今、土岐田さんがレイニング世界大会出場の馬を見に代表で米国に渡っていて、そのアメリカから電話があって、
「何!!」
「土岐田さんがアメリカに三ヶ月位Ropingの修行に行く気があるかと聞いてきたのだけれど、どうその気はある」
「えっ」
「それも一人で、だよ。」
「一人? 俺、英語話せないのにどうやって行くんだ。」
「行く気があれば、行けると思うよ。」

 私はいつもこうして驚かされているのだ。

「しかし何で急に、そしてそんな方向に話が進んだのかなぁ。」

「土岐田さんがDaleとレイニングホースを見に行っている時に、ローピンピングホースも買ったらしい。 但し今回限りだから、YesかNoの選択をしなければならいんだって 。」
 何れにしても凄い話だと思う。詳しい話はランチに行って聞くことにして電話を置いた。
 しかし、電話を切った後、嬉しさで笑みがこぼれてしまった。 
 その後、早速ランチへ行き、電話で聞けなかった詳しい話しを聞いた。


「土岐田さんがRowdyさんの為にローピングホースを買ってDaleの所
(Harvey Ranch)に預けてあるから、行く気があればテキサスのJamesがいる牧場に馬を運んでおくということで、しかもJamesがHarvey Ranchさんの一切の面倒は見ることになっている。それで、そのランチまでDaleが連れて行ってくれる事になっているんだって。」

 何故、こうまで皆で面倒を見てくれるのかと思うと熱いものが込みあがる。
私がランチに入会する時 「俺のウエスタン人生」の中でも書いてあるがローピングをさせてくれるのが条件だと行った。

 そうしたら
「RowdyさんCowboyの馬がロープに驚いてどうするんですか」
と、入会条件をあっさり受け入れてくれて、そしてまた、初めて米国に連れて行ってくれてローピングの指導者を(Roper)探し、実際にTeam Ropingの体験を、意図も簡単に実現してくれた。
そして今度は隣の家に遊びにでも行くような感覚で、私に言ってきたのである。想像もできなかったことだが、断る理由は何一つない。ただ自分自身が決断をすれば良いだけだ。

 このとき歴史は動いた。


 その年の年初めにクラブ恒例の“お浚い会“と云う練習試合が行われた。
 その時、不覚にも人馬転をして左足首を骨折してしまい職場も休むことになった。当然長期欠勤になってしまった。会社も人員整理の為に、条件付の早期退職を募っていたし長期欠勤なると、復帰したとしても元の職場に戻れる保障は無い。歳も歳だし時代の流れも手伝い、職場もコンピュターを導入してきているから、俺みたいのは大変、又あれこれ面倒くさいのも出てくるならと思いいっそ退職してしまったのだ。
 辞めてしまったので誰に気を遣うことも無いから、アメリカローピング修行のチャンスにYesを選ぶことにした。

しかし、Yesと決めた頃から、段々嬉しさと不安が逆転して一番心配が言葉の問題、しかし夢を叶えてもらえるこの幸せは、命にも代え難いなのである。ただ事情(失業保険の関係)があって一ヶ月と決めた。今思えば三ヶ月滞在していれば馬のトレーニングも教えてもらえたかも?

 そして土岐田氏が帰国後
「よろしくお願いしますよ。」
「でも本当に一人で行くんだ。ウゥ〜ン言葉が心配だ」
「大丈夫だって、Rowdyさん何とかなるものだよ。DaleもJamesもいるし、Daleがダラスフォートワース国際空港まで迎えに来て、それからテキサスのランチまで送ってくれる事になっているから良いんだね、それじゃ連絡しておくから」

 1992年5月23日初めての渡米から9年間で4度目が一人旅とは、これが正しく俺のウエスタン人生だ!ところがその二週間後に事件は起きたのである。予定が変更された。Daleに用事が出来てしまい迎えにいけないと知らせがあったと聞かされ
「えッ嘘!」
「大丈夫。一回乗り換えるだけ、成田からヒューストン、乗り換えてサンアントニオ空港に行くとそこにJamesが迎えに来るとJamesには話がついているから。」
「そんな簡単に言わないでよ」
 頭が真っ白 だ…。
 “ノースピーチイングリシュでしかも乗り換え?
 “とんでもねぇー話になってきちゃったよ”

 2002年9月26日(日本時間)緊張感で2日前から下痢が続いている。薬を飲んでもだめだぁ。そうすると余計な事を考える。
 初渡米の帰国時は、13時間もトイレに入らなかった経験をしている。お漏らしは大丈夫と思うけど。不安でいっぱいだぁ。

 当日空港まで送ってくれるというので、前日はランチに泊まらせてもらいスタッフ達に見送られ一路成田へ
 車の中で土岐さんからアドバイス受けた。
「とにかく迷ったり分からなくなったりした時は、早く聞く事、時間が過ぎれば過ぎるほど分からなくなるから。」
 時間までレストランで食事など

「それじゃ行って来ます。」と空港を後にした。ゲートを越えてしまったから前に進むしかないのだ。
 機内の3人掛け座席には、俺と黒人の女性が一人前後左右は日本人で、かなりの数のスチュワーデスも日本人なのでひとまず安心。


 9月26日(現地時間)テキサス州ヒューストン空港に到着。
先ずは、第一の難関は入管/税関である。
 土岐さんと初めて来た時に Sight Seeing“ 齋藤新一(サイトウシンイチ)が中々出なかったので、今回は大丈夫とばかり、それに日本人女性の案内人いるので安心だ。だんだん入り口に近づく。そして周りの人も消えていく、日本人女性の案内人も消えた。
「あれ〜」女性の管理官だ
「何しに来ましたか」
「Sight Seeing」そして、ベラベラ言っている中、‘ステイ’と聞こえたので泊まる所を聞いているのだなと思い、どうせ通じないなら日本を発つ前に土岐さんが渡してくれたJamesの住所を、直接見せたのが良いかと思い、渡したら彼女は困った顔をして他の管理官を呼んで話している。その会話の中で、ビジネスと聞こえたので俺疑われているな。
「本当に観光に来たのか」
こりゃ困った。先ほどまでいた日本人を案内していた女性はいないし、管理官も困っている。すると管理官は、隣のゲートに並んでいる日本人に英語の分かる人は居りますかと聞いたら、学生らしき男性が名乗り出てくれたがあまり上手ではなかったらしく伝わらない、すると中年の女性が名乗り出てくれた。その人は、男性のお母さんらしい。
「これは観光とは認められない!仕事ではないか何しに行くのだと聞いていますよ」
「Roping、投げ縄の修行に来たと伝えて下さい」
Team Ropingと大げさにボディランゲージすると
「Roping?」
管理官も、ローピングのボディランゲージしながら
「Oh!“Team Roping OK. Good Luck」
 ほっと胸をなで下ろしたが一難去って又一難、乗り換えロビーまで長いし分からない。
“分からなかったら直ぐ聞くこと“土岐さんの言付けを守り、前から来る人に
「Excuse me」とチェケットを見せたら
「あっ、そこのエスカレーターで地下に降りてモノレールに乗る。」
と教えてくれたのだ。そして今度は、何処で降りればいいのか案内板を見ているらしい。
「何処にいかれますか。」
と日本語、振り向くと日本人女性とアメリカ男性が(夫婦?)立っていた。
「ヒューストン行きの乗り換えロビーに行きたいのです。」
「それでは、二つ目で降りてエスカレーターを上れば、ロビーに出られますよ」
指を指しながら教えてくれたのです。旅先の人の情けをしみじみ感じた瞬間である。
ロビーへ出て直ぐ案内嬢にチェケットを見せ
「ここでいいのか」
案内嬢は自分の腕時計に指を差しながら
「この時間になったら搭乗はOKよ」
と言ったのか分からないが、乗れたのだから間違いはなかったのだろう。
席も窓際だったので、約一時間上空から大陸を眺めることができて楽しめたのと、段々慣れて余裕もでてきた。

 やがてサンアントニオ空港に到着。
 どんな人が迎えに来ているのだろう。James本人かな?それとも?
荷物を取りにターンテーブルへ向かって、待合室の方に目を向けたらプラカードをもっている人を見つけた。荷物を持ってその人に近づくにつれ文字がはっきり見えてきた
「ROWDY HASEGAWA」
通常のマナーは、男性なら握手を求めても良いが女性ならば脱帽し自分から手を差し出してはいけないそうだ。しかしその人はショートカットでガッシリした体格、おまけにプラカードを胸の処だったのでてっきり男性と思いきや、その人は女性だった。 握手を求めて手を差し出した、マナー違反かな
「はじめまして私はI can't speak englishです」
「アハハ分かっているよ」
 空港から一時間強で行くと云うことで走り出した。
日本では、時速(80キロ位)で走っているので渋滞しているとは思わないのに、彼女にしては、渋滞で不満げな顔をしていた。
郊外に出たらスイスイ流れる緑多き南テキサス。行けども続くお馴染みの景色。スピードが落ちてウインカーが右にだされ、其処には立派なゲートが立ち塞がり、彼女はリモコンを取り出して操作・・・ゲートが開いた。

 これが個人の牧場なのかゲートを入り、進行歩行右は、森というか林、左には放牧場でアンガス牛、幅10M位の川が流れ、それを渡るとオフィス兼厩舎が、ホテルみたいな玄関、その反対側には屋根付きのラウンドペン(丸馬場)、大きさも武道館を縮小した立派な建物である。
彼女は事務所に入り、関係者と云うか従業員を連れてきて、紹介をしてくれた。迎えに来てくれたのがNONIで、滞在中世話をしてくれるのがBrandonという長身のCowboy、事務員の女性に初老で品のある男性(此処で大きな間違いを犯すのだった。後で分かります)でした。
Brandonがこれから約三週間宿泊する家に案内するという。4軒が離れていても10メートル位の範囲に建っていた。その一軒に通され荷物を部屋に運んだら、早速が牧場内を案内。
バギー車でもなく牽引も出来る二人乗りの車に乗せられて、場内を走る。広さが約2200エイカー(5500ヘクタール又は90町歩)平坦ではないが小高い丘や谷、野生の鹿、七面鳥、所々に湖や沼もあるのでビーバーもいるそうです。
小一時間ほど回りした頃、真っ赤な夕日が西の地平線に沈む(何故西と分かったか?それは太陽は西に沈むと決まっているから。その証拠に明日は必ず東から昇るよ。)
 南テキサスの第一夜、どんなコミネケーション取れば良いのだろうか?
その夜、歓迎パーティみたいな事をしてくれたのである。
Chrlieという黒人のCowboyとその両親Brandonと女性の友達それとNoni、ビールや料理を飲み食いしながら彼等が騒いでいるのを見ていたら、一人の女性が近寄って来て柔道の技を教えてくれと言われた。中学生の時に少しかじったことがあったので、二 三手 技を教えたら何か急接近した感じ、よし此処を逃したらチャンスはないと思い
「俺さジョンウェインの歩き方が、日本じゃ上手いって言われている」
「みせて」
リオブラボーの時のワンシーン、ライフル片手に歩く姿をやったら大受け、この手で三週間暮らしていけるかも。

 9月27日 テキサスの一夜が明けた。
Ropingを勉強に来たのだからしっかりと学んで行こうと改めて心に決めた。
“はるばる来たぜ。南テキサスへ。言葉を乗り越えて” 彼等もその事は分かっているから、除々に教える様な事を云ってくれる。
それ以上に嬉しいのは、土岐さんが購入してくれたRoping Horseとの対面である。

 彼等はその馬を“ROWDY“と呼んでいた。

 他に私の面倒を看てくれる登場人物を紹介しておこう。
ちょっぴり美人で小柄で愛嬌のあるPeggy。装蹄師のJimbom。口髭のCowboyのDeckey。 

 9月28日 朝晩は、上着が必要な位涼しいが、日中は真夏日でように抜ける様な青空が、俺の目にも眩しい。
ここは肉牛、馬(QH)の生産 育成 調教。 牛(アンガス種)がメーン。
Ropingは、牧場主の趣味でRoping Cattle (Steer) も飼っている。子供のバッファローもいた。まだRopingのレッスンまではいかないが、朝夕の馬の餌運びのお手伝いで一日を過ごしている。
昨日の事、アンガス牛がRoping Cattleの中に混じっているから、それを切り離すと言う仕事だったのだが、意味が分からず気付いた時には終わっていた。

 Roping Arenaは設備が整っていてナイターも出来る。またパスチャー(区分される放牧場)は移動しながらゲートの開閉が出来るように区分される。そしてCuttingの手伝いもした。
牛を10頭位馬場に入れ、静かに馬場の中央に集める。その中から1頭を切り離すのだ。俺の役目は牛が散らばらないようにするのだが?(ターンバック)そして1日が終わる。

 9月29日
「Rowdy , Round upへ行くよ。散らばっている牛をパスチャーに移動させる仕事だよ」
 Noniが俺の乗る馬を指差し、Saddle up。 Brandonと3人で出かけたが1時間位探しても見つからず、丘を下りながら帰途に就く、するとNoniが池の上の方に居るのを見つけ、歩き出した。
「Rowdy、前方を良く見て」
木立の中をぬいながら探していたら、20頭位の群れを見つける。二人が相談をしている。真直ぐ行くと谷になるので、右に迂回させるから右サイドを守れと指示され、移動が始まった。群れが動き出した。
 牛の動きに合わせて馬を出し、Noniは先に行きパスチャーのゲートを開け、Brandonは後からプッシュ、俺は先頭がゲートに入らなかった場合に備えて、行き先を封じる位置で待機、先頭が入ったのを見て一斉に追い込み、牛は新しい放牧場と消えて行った。




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