「プレッシャーとリリース」、「緊張と緩和」について、お話ししてみたいと思います。
乗馬ライフに連載をしていた頃のことで、つい昨日のように思い出します。それは大凡プレッシャーとリリースというメカニズムに乗っ取って、馬とのコミュニケーションをとるということをベースに記事を書きました。
今ではウエスタンという垣根を越えて、プレッシャーとリリースという言葉は一人歩きして、いたるところで用いられています。
私が緊張と緩和という言葉に出会ったのは、桂枝雀という落語家が大好きで、ご存じの方も多いと思いますが、残念なことに自殺してしまいました。この人の落語の枕で、笑いと云うのは人間の精神における緊張と緩和によって起こるもので、ある種の緊張の後にくる「何だ ああー。」という緩和が笑いにつながるということで、この事が私は大変気に入って、この人が大好きになってしまいました。
この話を聞いて精神作用として起こる緊張と緩和は、コミュニケーションの原点なのではと考えて、どういうときに緊張と緩和が起きるのかという疑問がわいてきました。
そう考えていく内に精神作用は生物にとって何ためにあるのかとか、どんな役目を担っているのだろうという疑問をも持つようになって、生命の維持に密接な関係を持っていると云うことに行き当たり、マイナスとプラスつまり緊張と緩和という2局に集約することができ、正常な生物における精神作用は、生命の維持に対して痛みや不安などの危機というマイナス要因が働けば緊張が起きて、何とかそれを回避しようという行動を引き起こす。そして食べ物を採ったり暖かい環境に包まれたりといったプラス要素が働いたときは、精神的緩和を引き起こし、その持続を欲求する。
例えば樹木の年輪もまた然りで、厳しい冬の季節は色濃く成長が促進される夏は色が薄く年輪が刻まれることも、緊張と緩和と生命維持機能の相関関係による仕業でしょう。
また赤ちゃんが、お腹がすいて泣くのも母親に抱かれてすやすやと眠るのもまた、「緊張と緩和」と「生命維持機能」との相関関係によるものだということができます。
人間同士や動物同士もまた人間と動物のコミュニケーションもまた、精神の緊張と緩和というメカニズムでなされていると考えることができます。
人に感動を与える作品は音楽や映画や小説も、緊張と緩和が巧みに組み合わされているものなのです。だいぶ前の作品ですが、「トップガン」というトムクルーズの出世作となった映画があります。
この作品を緊張と緩和というメカニズムで解析すれば、オープニングで刺激的な音楽とジェット戦闘機の爆音でいきなり観客の緊張を煽り、集中力を高めた後にゆったりとした雰囲気のなかでストーリーが展開する。そして男女の出会いがあって恋愛に発展し、観客には安堵という緩和が起きる。途中戦闘訓練で再び緊張を創りだし、主人公に挫折が生じ結果的に恋愛にも破局が来て、観客に落胆という緊張を創りだした。それから映画は一挙に終盤に突入して、敵国との戦闘状態という場面で主人公の挫折からの立ち直りが描かれそして恋愛の方もハッピーエンドという結末で、観客は緊張状態から一挙に緩和状態となって、最高に緩和状態になった気分で映画館を出る。とこんな風になります。
精神作用は、生命体の生命維持機能として備わったメカニズムで、外的要因が生命に対し危機をもたらすものと感じることや理解できないことであったりしたときは緊張を生み、その結果危機からの回避という行動を促す。そしてまた外的要因が生命に対して維持促進する要因が働いたときは、緩和をもたらしその要因の持続を欲求するというメカニズムを持つものです。
しかしこの論理は全て生命体としての個体に生命維持機能として機能すると云うことになって、自己犠牲と云うことが自然界にはあり得ないことになってしまいます。しかし実際に自己犠牲は、自然界に存在するわけだから理論に矛盾が生じてしまいます。そしてそれは精神的異常を来した結果起こるとことではなく、繁殖行為やとっさの反射的行動に自己犠牲がよく見られることなのです。
例えばカマキリは、交尾の後雌に雄は食べられてしまうのにもかかわらず、雄は雌に繁殖行為に及ぶのです。これは一種の自己犠牲です。
そしてまた母親が子供を守るために、自らの命を犠牲にするということもまたこれを証明するものではないでしょうか。ただこの点でおもしろい話があって、地震があって家の柱が倒れてきたときの子供を抱く母親の行動は、急激に倒れてきたときとゆっくりとでは行動が違うというもので、とっさのときは殆どの母親は身を挺して子供を守ろうとするが、ゆっくりと倒れてきたとき母親は必ずしも子供を守らないのだそうです。このことはゆっくりと倒れてくることによって大脳皮質が働き、つまり考えるという機能が働くことによって、個の生命維持機能が種より優先してしまい、とっさの時の場合は反射神経による行動つまりDNA段階では、個より種の生命維持が優先する機能を発揮することを物語っています。
我々が馬に乗って馬をコントロールする場合は、馬の精神的緊張と緩和を利用してコミュニケーションしなければなりません。馬の思考を利用するなら緊張や緩和を与える刺激は、その馬の思考力に合わせた速度で刺激を与えなければならないということになり、馬の反射神経を利用したいとするならスピーディーに刺激を与え、馬の思考力を活用したいのであれば、それに比べてゆっくりとした刺激を与えなければなりません。
そして学習機能は、動作の直後に緩和か緊張の刺激が来るかによってそのベクトルが決まるというもので、例えば動作の後に緩和が来ればその動作を継続するように記憶し、動作の後に緊張が来れば、その動作を2度としたくないと記憶をするというメカニズムなのです。
従ってライダーの希望を馬に伝えるには、希望する動作を馬が反応として興した直後に緩和を与えなければなりません。また馬の反応がライダーの希望しないものであった場合は、その直後に緊張を与えなければならないという理屈になります。その後にできることならライダーの希望する馬の反応をさせて、直後に緩和を与えて一連の行動を止めることにすれば理想的です。
プレッシャーとリリースとは、ライダーがプレッシャーやリリースを馬に与えるかではなく、馬のメンタルに緊張と緩和が起きているかどうかが大事で、ライダーの物理的圧力の多寡ではなくて、馬がそのライダーに対して上位者という認識を持っているのかどうかで、馬が受ける精神的緊張と緩和の影響の度合いが違ってくるのです。
良く巷で馬は人を見るといわれるのは、こういう理由があるからなのです。
プレッシャーとリリースは絶えず相対的地位にあるもので、リリースはそれ以前までの緊張値より緊張値が低ければリリースと解される。プレッシャーもまた同様なのです。
例えばレインをルーズにしていればリリースと馬が感じて、リラックスしてくれるものと思いこんでいるライダーがいるとしたら大変な勘違いなのです。何らかのプレッシャーによって馬に緊張を与えた後に、リリースすることによって緩和状態になれるものなのです。
最近乗馬に関する記事などで良く目にするようになったプレッシャーとリリースは、馬のメンタルに起きる緊張と緩和が目的で、その精神作用は生命体における生命維持機能の一つで大変深い意味を持つものなのです。
この事をお一人お一人充分理解するところまで考えを深めて、プレッシャーとリリースを駆使し馬とのコミュニケーションをとり、充実した馬との時間を共有してみて下さい。
プレッシャーを与えているつもりとかリリースしたつもりと云うことでなくて、実際に馬のメンタルが緊張したのか緩和したのかということに、ライダーとしての意識をフォーカスして頂きたいと思います。
著作 2007年7月1日
土岐田 勘次郎
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