今月のテーマは、先月に触れたバランシングについて理解できて、徐々にバランスが取れて自力で馬が乗れるようになり、サークル運動で駈歩がぎこちないながらもできるようになった段階で、乗馬について知っておきたいことと、これから上達するうえで必要となる意識や認識について触れていきたい。
乗馬とは、一体どんなスポーツなのだろうか。
「乗馬とは、馬の背中に乗って、馬をコントロールするスポーツ。」
コントロールとは、運動を促進したり止めたりするということだ。停止しているものを運動させたり運動しているものを止めたりするには、作用と反作用の力が働かなければなりません。しかもその作用と反作用の力点は、異なる物体上に位置しなくてはなりません。
もし同一物体上に支点と作用点が位置していれば、その物体が動くことはない。何故なら作用と反作用の力が互いに相殺されてしまうからだ。
馬が運動しているのは、馬の脚がグランドとの間で、作用と反作用の関係が形成されていて、決してライダーと馬との間で形成されているわけではない。
この点が乗馬において特筆すべき特徴であり、馬が意志を持つ生物でなければ成り立たないスポーツだといえる所以である。
つまり乗馬は、ライダーと馬とのコミュニケーションなくして、馬の運動をコントロールし、行うことができないということだ。このコミュニケーションとは、コンセンサスのあるものとそうでないものとを含めたものを差す。
但し、乗馬におけるコミュニケーションは、根本的にライダーが絶えずリーダーシップを発揮して、イニシアティブを取ったものでなくてはならない。
ライダーがリーダーとして、イニシアティブを取ったコミュニケーションをするには、先ずライダー自身が何をするかが自分自身の中で明確になっていることが必要で、それは乗馬の総括的目的や運動そのものの目的を、明確に持っていることが欠かすことができない要件なのである。
しかし、乗馬において初心者だと目的を明確に持つことが難しいと思いがちで、乗馬そのものの実態を掴めない内に、目的が明確になるはずがないと思うのが当たり前だ。総括的目的を持つことはできるが、個別の運動の目的を持つことが難しい。
「何を目的としたらいいか分からない。」
「正しい目的の持ち方を知らない。」
というように、目的を持てない理由ばかりが思いついてしまう。
上級者でも今日乗馬を始めた初心者でも、その時に見つかる目的を設定することが重要で、その時の目線で目的を、躊躇することなく設定してしまうことが大切なのである。
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正しい目的とかあるべき目的などというものを、探すこと自体が無意味で、初心者であれば乗馬をやろうと思ったときのきっかけとなったことや興味深く感じたことがあるはずで、そのことを目的に設定をすればいいことだ。
上級者であれば、乗っている馬を最終的にどんな馬にしたいのか、2〜3ヶ月後にどのようなレベルまでにしたいのか、そして今行っている運動は何のためなのかというように、長期的短期的目的を明確に持って、乗馬をしなければならない。これができなければ上級者とはいい難い。
もし中々目的を設定することが難しいときは、その為にできる限り情報を集めなくてはならない。
特に初心者の場合に、目的を設定するために情報を収集しようとすれば、その収集の作業は人によって様々で、人によって集めようとする情報が区々になるものだ。その種の情報を集めようとする発想がその人の個性で、その個性を生かして目的の設定を、することが何よりも優先することなのである。
更に、設定した目的を達成するために、何から始めるのかをプランする必要がある。
指導者の言を鵜呑みすることはあってはならないことで、自分が設定した目的とプランとに照らして、生じた疑問や矛盾は納得いくまで追求する姿勢を持つことも重要だ。
乗馬の原理原則を理解したうえで、自らが設定した目的を達成すべく、自ら考え出したプランに則って練習する。そしてその過程で感じる様々な感覚について思考を巡らして、わき上がった疑問や矛盾について解明する。更に会得した技術やできるようになったことについて、何故できるようになったのかどうして身についたのかについても、解明する意識を持つようにする。
そして更に、疑問や矛盾を追及するときに、只闇雲に考えるのではなくて、その解答を仮定したり想定したりして、その想定した答えを検証するようにして不正解を消去していく方法で解答を、探索することが望ましい。何故なら、解答を得ると同時に不正解も見つかるからなのだ。
以上記述したものは、誰もが日常的に行う行動パターンであり思考パターンでもあることだから、乗馬を特別扱いすることなく、特にコミュニケーションのメカニズムは、馬と人でも人と人とのものと何ら違いないことで、しかもとてもシンプルなものなので、誰でもが馬とコミュニケーションして馬をコントロールして、乗馬を愉しむことができるものなのである。
2010年5月25日
著者 土岐田 勘次郎
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