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   VOL.3 「仮説 馬の調教」

 馬の調教は、馬という動物の特徴を良く熟知した上でないとなかなかできないものだ、というのが定説だし、誰もが異論のないところだろう。
 がしかし、本当にそうなのだろうか。

 馬は、臆病で警戒心が強い、また動物界では12〜13番目に知能程度が位置するそうだ。ちなみに象と犬が4〜5番目に知能が高いそうだ。それから比べてみると知能程度は決して高いとは言えない。また、このほかに特徴をあげれば切りがない。
 この馬の特殊性をどれほどに活用して、われわれ人間は、馬を調教しているのだろうか。
 臆病だからどうなのだろう。危険なことは避けるのだろうか。では障害を飛ばすのはどう説明したらいいのだろうか。外乗で川を渡ったりするのはどうだろうか。

コミュニケーションのメカニズム

 私が馬を調教する上で、一番優先して考えていることは、複数の動物間におけるコミュニケーションのメカニズムだ。この点において馬は、決して他の動物と比べて極めて特殊だとは考えない。

 意思を持つ動物の全ては、外的要因に対して緊張するか緩和するかという一定の精神心的反応を示し、このことによってコミュニケーションが行われている。
 一方の動物がもう一方の動物の精神に対して、緊張か緩和を与えるかによって、自分の意思を伝えようとし、それを受け止めた動物が、さらに相手に対して、緊張か、緩和を与えるようにすることによって意思を伝え、コミュニケーションが成立する。

 精神的緊張と緩和は、その動物の生命に対して危機をもたらす要因であれば緊張を生み、生命の維持増進につながる要因であれば緩和する、という一定の法則を持つ。
 意思を持つ動物を調教するには、このコミュニケーションのメカニズムにのっとって行うのが大部分で、決してその動物の特殊性が重要な要因を占めているとは言えない。

 馬に乗るということは、馬に対してライダーがイニシアティブを取ったコミュニケーションでなければならない。
 馬の精神に、ライダーに対する協調性を導き出したり、忠誠心などを引き出さなければならない。
 従ってこのコミュニケーションは、人間社会における説得を伴うコミュニケーション(例えば物を売ったり買ったり、リーダーシップを取ったり、人に賛同を求めたり)と全く同じだ。

 つまり、馬を調教したり、乗馬をしたりすることは、決して特殊な行為ではなくて、隣人と普通に会話が出来る人間ならば、誰もが出来る可能性を持っているし、このことを通じて自らの感性(五感で感じたものを、どのような意味合いを持つものとして解釈するか)を磨き、人を含めた自分以外の動物とのコミュニケーションを容易にし、しかも豊かなものにする。これが乗馬の醍醐味といえる最大の要因なのだろう。

人間と、他の動物のトレーニングの違い

 もう一つ、調教ということを、別の角度から考えてみることにする。
 人間と他の動物のトレーニングという観点だ。私は、動物のと人間のトレーニングとは根本的に違うと考えている。

 なぜならば、知的能力とフィジカル(身体)的能力との相関関係を見てみると、これが明らかになる。
 まず人間は、フィジカル的能力と知的能力では、明らかに知的能力の方が高い。従って人間のトレーニングは、フィジカル的能力を知的能力の水準に近づけるべく、筋力の強化や反射神経の俊敏性を鍛えることが主なプログラムとなる。

 しかし、人間以外の動物の大多数は、知的能力よりも遙かにフィジカル的能力の方が高い。例えば馬のことで考えてみると、乗馬の調教とは、主にフィジカルのトレーニング、端的に言えば筋力の強化だと考えている日本人がいるように聞くが、これは完全な間違いだ。

母馬と仔馬たち 未調教の馬でも、速く走ったり。止まったり、サイドパスしたり、後退したりすることが出来ない馬は、この世に存在しない。もし、仮に後退することが出来ない馬がいるとしたら、とっくの昔に、自然環境に対応できなくて、絶滅してしまっていることだろう。

 しかし、何らかの指示命令によって、その運動を行うということになると、なかなか確実にこれを行うことが出来ない。つまり馬のトレーニングは、人間が送る合図を、フィジカルな運動と関連づけて考える、指示命令として、受けたプレッシャーの持つ意味を理解するメンタルな能力を啓発し、高めているのだ。

 勿論この運動に伴って、筋力の強化や反射神経の俊敏性を同時に、高めることになることは否定できない。

 従って調教が高度になるということは、コミュニケーションがより高度化したり、複雑化するということなのだ。もともと馬が持っている運動能力を、馬のメンタルを啓発することによって引き出しているのであって、極論すれば、決して調教によって、馬の運動能力そのものを創り出しているわけではないのだ。

刺激の強さと、それを受ける緊張と緩和の大きさは比例しない

 それでは、もう一度、緊張と緩和の話に戻ることにしよう。
 この緊張と緩和は、与えられる刺激の大きさよって、もたらされる緊張と緩和の大きさが違ってくるということもあるが、大体は緩和の後に来る緊張は強く、緊張の後の緩和は、より大きなリラックスを生むという面を持つ。
 つまり刺激を与えるプレッシャーの大きさと、受ける精神的緊張と緩和の大きさは、比例しないということだ。
 このことを良く心得て調教を行うことが大切である。

 私が馬の調教は、どのような方法を駆使するかよりも、加える力の加減が大切だと良く言うのは、このことがあるからだ。
 つまり、馬に緊張を与えるとき、最初に小さいプレッシャーをかけて、徐々に強いプレッシャーにしていくことによって、つまり緊張の後にさらに緊張を与えるようにすると、実際には、そのプレッシャーの強さに関わらず、極端な精神的緊張を生まないということだ。
 しかし、緩和状態の時、不意に緊張を与えるプレッシャーをかけると、その強さは小さくても、極端な緊張を生み、時にはパニックを起こしてしまうこともある。

 ライダーは、この特徴を良く理解する必要がある。もし馬に、ライダーへの強い集中を求めたいのであれば、緩和状態の後にプレッシャーをかけ、また緩和状態にしてさらにプレッシャーをかけることを繰り返せば、馬は、ライダーに対して強く集中するであろうし、馬に理解を求めたいのであれば、プレッシャーを小さいところから初めて、緩和させないで徐々に力を加えていけば、馬は、一定の精神的緊張を保ちパニックになることなく、要求の意味を理解するようになるだろう。

馬に理解させるには、適当な緊張状態が必要

 また、ものを理解する作業と、この精神的緊張との相関関係も密接なものがある。
 極度な緊張は、理解力を低下させるし、緩和状態でも理解力は発揮されにくい。つまり、適当な緊張状態が、理解力を発揮するには最もいいということである。
 しかし、馬は人間に比べるとかなり緊張しやすい動物であり、馬を調教する場合は、いつも馬のリラックスに配慮していて、ちょうど良いくらいだ。 

 馬の調教は、決して特殊なものでなく、特殊な能力を必要とするものでもないということを理解されたい。
 しかし、それは我々人間が日常生活を何気なく送って行く中で、誰でもが意識もせずに駆使している能力を、意識して、より精度の高い能力へと導かずに、これを容易にすることは出来ないだろう。

                           1999年8月  土岐田勘次郎


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